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infection



その次の、拒絶が怖くて、喉が詰まる。
いつの間に、こんなに弱くなった。

上手く声が出せない。
いつの間に、こんなに弱くなったんだ。




額を撫でる、少し冷えた手のひら。

(ここにいますよ)

------------何処にも行くな。

(わたしはここですよ)

------------ここにいろ。



腕を伸ばせども伸ばせども、届かない。
自分を呼ぶその声は、こんなに近くに聞こえるのに。

この声は届かない。
喉が詰まる。声が掠れて上手く叫べない。



------------ここにいてくれ。



…懇願。
なんて自分に似合わない響きだろう。それでも。

失うことが怖いと知った。それを忘れることは、不可能だ。
なかったことになど、できない。

だが、どうすればいい?
掠れた声では、呼んでもきっと届かない。

何とか上手く答えなければ。

掠れた声で、叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。
全てが手遅れになってしまえば、もう二度と、此処から出られない。


*****


ぶわ、と風を切る様な音がして。
其処で奈落に落ちるように目が醒めた。

「……」

蛍光灯の光が目を刺して、芥辺は顔をしかめる。
見上げた天井の視界に、ひょい、とさくまが入ってきた。

「あ、アクタベさん。起こしちゃいました?
暖房で空気が汚れてきてたんで、換気しようと思って…」

すみません、と彼女は謝る。

「外が寒かったから、気圧のせいですかね。窓開けたらびゅうびゅう風が入ってきまして…」

「ああ…」

風の音だったのかと納得して、芥辺は眉間を押さえた。

「…さくまさん、いま…何時」

「えっと、5時ちょい前くらいですかね」

「…書類整理、終わったの」

「あ、はい。あとは印刷するだけ、ですよ」

「そう」


ひと段落ついたら、早めに上がっていいから。
そう言って、身体を起こすと、掛かっていたブランケットがはらりと落ちる。

「…これ、さくまさんの?」

薄い黄緑色の、シンプルなデザイン。
芥辺は床に落ちたそれを拾い上げながら聞いた。


「あ、はい。上着も脱いでらしたんで、風邪ひかないかなあ、って」
「…そう」

さくまは、芥辺がその乏し過ぎる表情の中に、僅か見せた笑みを見て、微笑んだ。




「あ、そういえばアクタベさん!」

さくまがポン、と手を叩く。

「なに」
「キッチンに肉じゃが置いてあるので、良かったらあとで食べてくださいね」

ベルゼブブさんのイケニエのついでで申し訳ないんですけど。
へへへ、と彼女は笑う。



「…割り箸何処にあったっけ」

のそりと立ち上がってキッチンに向かう芥辺。
いま食べるんですか?とさくまがついていく。

「いやウチに箸無いから」

さくまは目を丸くして尋ねる。

「えっ、アクタベさんってここに住んでるんじゃないんですか」

あ、割り箸ここです。あと肉じゃがこれ。
言いながらテキパキと割り箸を取り出し、密閉容器に詰めた肉じゃがと一緒に渡す。

「てっきり事務所に住みこんでるんだと思ってました」

「そんなイメージだったか」
「はい、すごく」

グリモアだって事務所に保管してるじゃないですか。
それに夜はコータロー君だけでしょう。大丈夫なんですか?と首をかしげる。


「結界内にある部屋借りてるから、反応があれば気づけるようになってる。すぐ対処出来る範囲だ」

光太郎は知ってるんだがな。言ってなかった?
言いながらさくまからビニールの手提げを受け取り、容器を詰めていく。

きっとコータロー君とひとつ屋根の下はウザいとか思ってるな…
と思いつつそこはサラッと流すさくま。

「聞いてないですよー。ずるいなぁ」

むくれて言う彼女に、思わずくつくつと笑う。


どんな家なんだろう…意外と豪邸だったりして!
…いやいや、でも家事できないとなかなか難しいかー。
まさかお手伝いさんとかいたり…いやーないわー…

「さくまさん」

ナントカ荘とか言う名前のアパートとか…うーん
それじゃあ今日のせてもらった外車とはあまりにも…

「さくまさん」

彼女は呼び掛けに全く気付かず、顎に手を当てて考え込む。

「…オイ」

イラっとしてついむんずと頬を押さえ付けた。

「むふぁ!はひふるんれすかー。あふはべはん!」



「…そんなに気になるなら来てみれば?」

そのまま壁に押さえ付けられて、さくまは口をパクパクさせて声にならない悲鳴を上げる。

「気になるんだろう」
ニヤニヤと泣く子も黙る様な笑みで聞けば、みるみる顔を赤くする。

「それに、家事、教えてくれるんじゃなかったの?さくまさん。」
「えと、あの、ちょ、それは…!そんなつもりで言ったわけでは…なくてですね!」
さくまは、予想外に生活能力の乏しかった芥辺にした約束を、今更後悔した。

(変なお節介焼かなきゃよかった…!)


事務所のキッチンとかでいいじゃないですか!
彼女はやや涙目で言って目を逸らす。

「…ふーん?」
やや顔を近づけて聞けば、赤かった顔を余計に赤くした。
「…!!……!!」

さくまは大声で何事か喚きながら、考えておきます!と言い残して慌てて帰って行った。
ドタバタと荷物を纏め、ソファか何かに躓いたらしく、痛い痛いと言って、走っていく音。

アクタベさんのバカ!!


バタンと大きな音を立ててドアが閉まる、その一瞬響いた大声に、
芥辺はまた、くつくつと喉を震わせて笑った。






急に静かになって、時計の針の音が嫌に耳に響く。
軽く溜息をついてから、椅子に掛けてあったマフラーとコートを取り上げる。



(冬なんだから、ちゃんと温かくしなくちゃ、ダメですよ。)

-----選ぶの、面倒だから。

(風邪ひいちゃうじゃないですか)

-----別に平気だから。

(ダメです。見てるこっちが寒くなっちゃうんだから!)


次から次へと試着させられた防寒具に埋もれながら半ばうんざりしていた芥辺に、

(ね、この際だから買っちゃいましょう)
そう言って無理矢理マフラーを巻いた彼女の顔を思い出す。

胸の深いところがムズムズする。
このままでいいんじゃないか。などという甘い考えが頭をもたげる。

このまま何も伝えなければ。

少なくとももうしばらくの間は、
あのひどい飢餓感に悩まされずに済む。


だが、このまま何もせず、時間が過ぎたなら。


彼女はいつかここから出ていくかもしれないし、
そうでなかったとしても、いつ居なくなるかなんて分かったもんじゃない。
人の命なんて、儚いものだ。
失うのが早いか遅いか、ただそれだけ。


何も伝えなければ。
いつか失うときが来ることだけは、確定的だった。

その時、自分は耐えられるのか。
背筋が凍るような感覚に息を呑む。

つまるところ、自分は彼女が居なくなれば平静を保てない。




意味もなく腹が立ち、思い切り屑箱を踏み潰す。
プラスチック製の屑箱は音を立てて粉砕し、飛び散った。

「チッ……初めてのガキじゃあるまいし」

いちいち反応を気にして、自分の所為で傷ついたりしないか不安になる。
最初は彼女にだって一切容赦しなかった癖に。
今更何だというのか。いままでならば、側に置きたいのなら、
さっさと手に入れてしまえばそれでいいと、そう思ったはずだ。
有無を言わせず術を行使し、一切の逃げ場をなくしてしまえば、それで済むと思っていた。
永遠にそばに置きたいのなら、
"死ぬ"という選択肢を奪い、隣に置いておけばそれで良かったはずだ。

その時彼女はもう二度と、自分に笑いかけたりはしないだろう。

二度と。


二度と。




一体何があるというんだ。

泣かれるのは怖いなどと思う自分。
あまりにも滑稽過ぎて。
まるで自分が自分でなくなったように思えてくる。

段々酷くなっていくこの自分らしくない考え方が気に食わない。
まるで、何か悪い病気のような。

「バカみてぇだな」

俯いて自分にしか分からない程度に苦笑する。
飛び散らかった屑箱の残骸と、ただただひたすら同じ速度で進む時計の音。

芥辺は深く溜息をつき、目を伏せて革張りの事務椅子に腰掛けた。



*****


昔、少年はひとりで気が遠くなるほどの時間を膨大な書物に囲まれて過ごした。
広い屋敷、大勢の召使い。財と権力を欲しいままにし、
そして彼には一切興味を示さなかった両親。

彼は一人だった。
足りない何かを埋めるために、爪が折れても、
両手が荒れて血が滲んでもまだ、書物を読み続けた。
ひたすら、ひたすら。

足りないものが一体何なのか、教えてくれるものは誰もいない。


悪魔と魔導書を話し相手に過ごし、
繰返し繰返し召喚を繰り返すうちに、手を出した儀式によって死ねなくなった。

それからしばらくたったのち、世界中を巡り歩いた。
足りない何かは、自分の力で埋める事ができると。

世界は思ったより広くはない。
何を見ても、何を聞いても、結局つまらなくなって、興味を失う。
何処へ行けども人間は愚かだ。

それでもひたすら、足りない何かを求め続けて、此処まで生きた。
誰かに寄り掛かったりすることなど一度もせず、
ただ自分ひとりの足で立って。



*****



光太郎が戻ってくるのを待ってから、芥辺は事務所を後にした。
部屋の片付けを指示すると芥辺の思った通り鬱陶しい反論が返される。

少しは自分で片付けろよな!
ぶつぶつ文句を言う彼をを脅し、いいからやれと脳天をギリギリと握り潰す。
ギャアギャアと喚く光太郎をようやく解放すると、不審そうな顔で言った。

「あのさ、アクタベさん……なんかあったの?」



暗くなった道を黙々と進む。
絶え間無く行き交う雑踏と、ざわめく声。声。声。
底冷えのする空気の中で赤く光る無数のテールライト。

吐き出した白い息は、暗く淀んだ曇天の夜空に吸い込まれる。
首に巻いたマフラーの感触が、自らの存在を主張する。
片手に持った軽いはずの手提げが、妙に重たい。

見上げた空は星ひとつなく、明るい街のネオンで濁り
何処にも逃げ場のない迷路の様に、どこまでもぽっかりと口を開けていた。


「…………」



答えなんて分かるはずもない。
いつから俺は、こんなに弱くなったんだ。

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