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Homebound

金曜日の夕方。
道の向こうに紫色の空が広がる街を、芥辺は足早に歩く。

夜に染まり始める街にはぽつぽつと灯が灯り始めている。
雑踏の中に飲食店の匂いや話し声。

珍しく仕事が早く片付いたので、駅前の本屋にでも寄ろうかと考えながら腕時計に目を遣った。
顔に吹き付ける風が切る様に冷たい。流石に年末のこの時期は冷える。
身に纏った黒いコートを掻き合わせながら、出かけ際に手袋を持つように勧められたことを思い出し、
断らなければ良かったかと少し後悔する。

吸い込んだ空気が更に体温を奪い、喉の奥へと侵食していく。
指を温めるように擦って、スラックスのポケットに掌を突っ込むと
帰路を急ぐ人の群れの中を、器用に潜り抜けた。

不意に鳴りだした携帯の着信音。
ディスプレイには見慣れた名前が表示されていた。
慣れた手つきでボタンを押す。

「…もしもし」


『とーしゃ!』
電話口に響く大きな声に驚き、耳から携帯を離す。
こんな喋り方をする人間は自分の周りにはひとりしかいない。

「……今どこにいるんだ?」
『も、ただまするー?』

そろそろ帰宅するのかと聞きたいらしい息子の声に、苦笑する。
妻に良く似た碧色の瞳を丸くして訊ねるさまが目に浮かぶ。

はたから見ても誰も分からないような微妙な表情の変化だった。
電話の後ろから、「お疲れさまは?」と小さく声がしたので、芥辺は息子に訊ねた。

「ああ、ただいまする。今どこだ。事務所か。」
『かーしゃとねぇ、べーやとあーちゃといるー。』

いまいち的を射ていない息子の返答から状況を推測しつつ、携帯を持ちかえて訊ねた。

「どうした?何か用か?」
『でんわひとりでできたー。かーしゃにおしえてもらったの。』

えらい?と得意げに尋ねる声。
えらいえらいと棒読みで答えると、誇らしげに笑う。その後ろからは騒がしく賑やかな声。
『かーしゃももしもしする!』
『あ、かわっていいのー?』

息子に代わって電話口に出た声は、笑いを堪える様に震えていた。
悪戯が成功したかの様な楽しげな声だ。

「…りん子さん」

『あ、私が電話かけようとしたら、代わりにかけるって聞かなかったんですよー』
びっくりしたかと訊ねるので、それなりに、と答えておく。

「……ところで、用件は?」

行きかう車の音や、横断歩道の信号音で、時々聴き取りづらくなる声に耳の神経を集中する。

『はやく声が聞きたかっただけです』
「は?」

『とーしゃ!!!にくじゃがー!』『今日は肉じゃがですよ』
『肉じゃがやー!!』『カレーが良かったんですがね!』
電話の向こうが騒がし過ぎて、用件も、電話の理由も良く分からなかったが
何だか楽しそうな声だったので、やれやれと軽く溜息をついた。

『とーしゃ、ただまするー、ただまするよー!!』
電話の後ろで息子が悪魔達に繰り返し教えている。
半ば呆れ気味にわかったわかったと答えている声がした。

『事務所にいますから。早く帰ってきてくださいね、待ってますから』
あなた、とぼそぼそと絞り出すように呟かれた言葉に噴きだすと、既に電話は切れていた。


暫く携帯を眺めてから、独りごちる。
ああ、早く帰ろう。

思ってもみなかった場所が、ある。
昔の自分が見たらいったいどう思うのだろう。

ひどくこそばゆい感覚に頭を掻いた。だが、不思議と悪くないものだ。
待っているひとがいる、というものは。


さあ、もうすぐ帰るから。

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